こころべり

心のままにしゃべります。アラフィフ主婦のつぶやきです。

先ずは 自分から。

私は ストレスで声が出なくなりました。


『声がでない』とはどういう感じかというと、声の出し方がわからない。といった方が感じてもらいやすいのかなと思います。


病名は『解離性運動障害(失声)』です。

私の声は、いつかはわからないけど、ある日突然パッと出るようになるそうです。なので

自分の声については明日には出る😄と思って毎日楽しみに過ごしています。

 

だけど私は、たとえ自分の声が戻ったとしても今の声の出せない気持ちを

『治った。治った。良かった~』と、

おわらせるのはなんか違うと思いました。

 

思っています。

 

自分の声が出なくなることがあるなんてと、何ヵ月も病気を受け入れる事ができずに時を過ごしていました。

 

いまでも、ときどき 声を使って人々とコミュニケーションをとっていた日々を思い出すと、急に寂しくなるときがあります。


私には主人と子供がいます。

病気ではあるけれど、生きている限り家族とのコミュニケーションは不可欠です。


声が出せなくなって、家族と会話が出来ない事に本当に困りました。


紙とペンをもって「ありがとう」「ごめん」「おはよう」と筆談をし、これらの言葉で

さえも簡単に伝える事ができなくて悲しかったです。


私は、直ぐに手話の勉強をはじめました。

「ありがとう。」

「ごめんなさい。」

「よろしくお願いします。」

「おはよう」

「お休み」

「気をつけてね」

「お疲れ様」

「お帰りなさい」 

「できる・大丈夫」

「できない・わからない」

 

だけど、これらの手話表現は私だけが覚えても仕方がない事がわかりました。

 

私が手話表現しても・・・


「ありがとう。」が伝わらない。


すぐに「ごめんなさい。」と謝っているけど、わかって貰えてなさそうだとわかると


あわてて紙に「ごめんなさい」と書いて

読んでもらう。


玄関先で、主人や子供を送り出すときに、

靴を履いて家を出ようとしてる家族に

「気をつけて 行ってらっしゃい」


の「気をつけて」がわかってもらえなくて、相手も急いでいるから『えっ?』と首を傾けながら家を後にする。


私の方は「気をつけて」の言葉なんて、急いでいる家族を呼び止めてまで、筆談をまってもらってまで 伝える程のことでもないから、とにかく思いっきりの笑顔で 手を元気にふって「なんでもなかったかのように」送りだしたりと。お互いなんとなく後味が悪い😥

 

手話表現は一方通行では意味がないこと。

と言葉の壁を感じました。

 

そして「声がだせない」って本当に不便だなとおもいました。


だから、家族には少し手話を覚えてもらいました。だけど、家族だから手話を特別につかわなくても『ギュー』とハグをすれば大概の事はわかりあえます(笑)


私は声が出せなくなって、1人で外出を

することがとても怖くなりました。そして

家族以外の人と会うこともとても怖いです。


声が出せないことが、こんなにも怖く淋しく孤独を感じる事だとは思いもしませんでした。

 

そして、もし私が1人で外出をするとなると、おそらく家族も心配するだろうと思っています。

 

聴覚を失っておられる方、視力を失っておられる方、障害をもっていても外出をして働く事をしている方々が多くいらっしゃるけれど、本当に勇気のある行動だな~と思います。


私も、外に出たいです。

1人で外出もしたいです。

友達とも会いたいです。

仕事もしたいと思っています。


だけど、私が外に出ると助けてもらうことも多いと思うのです。


そして助けてもらったときは、私は

「ありがとう」とお礼を言いたいです。


自分が悪いと思ったときは素直に

「ごめんなさい」と言いたいです。


朝はたくさんの人に

「おはようございます」と言いたいです。


仕事が終わったあとは、みんなと

「お疲れ様~」と言い合いたいです。

だけど、声はだせません。


私が病気になったことで、心に衝撃をうけた方がたくさんいると思っています。


家族、友達、同僚。上司。

びっくりさせて申し訳ありません。


だけど力を貸して下さい。

私と一緒に歩いて下さい。

私を助けて下さい。


10コの手話表現さえ覚えて貰えれば、

後は筆談でなんとかなりそうです。

いや『ありがとう』『ごめんなさい』

この2つで大丈夫です。


自分が勝手に病気になっといて、

自分が外に行きたいから、友達と会いたいから 人とコミュニケーションをとりたいから

筆談するのが面倒だから 周りの人に

『手話を覚えてください』

と願う私は、やっぱり傲慢ですか?

 

声が出なくなっても、下を向くことなく(筆談することなく)間髪いれずに明るく笑って挨拶をしたいと思う私はワガママですか⁉️

 

わたしは、自分が声が出なくなってから、

10コの手話表現は「ありがとう」や「ごめんなさい」の言葉と同じように、人が生きていくうえで身に付けていてもおかしくない教養なのではないかと気がつきました。

 

今まで何度か手話表現を使ったテレビドラマをみたことがあったけど、まったくの傍観者であった自分にとても反省をしました。

 

私は、自分がその立場にならないと、困らないと、切羽つまらないと行動にうつす事ができない愚かな人間なんだと改めて感じました。

そして自分が体験したことを『辛かった』と過去の事にして やりすごしてしまっては、

自分に成長はないな と思いました。

 

声が出なくなったことなんて、人からみれば大したことじゃないかもしれないけれど、

私は 自分の経験を生かしたい と思いました。

 

私が、感じている『今』の気持ちを発信することで、未来のどこかで『心が通う瞬間』が

あり、心救い・救われる方がいるような気がしています。

 

まだ読み書きの出来ない子供でもウルトラマンのシュワッチ(ありがとう)の格好なら出来るかもしれない。

口に酸素呼吸器を付けて会話がままならなくなった方が、親指と人差し指をつけてから手をひらくと、それは(ごめんなさい)です。

でも、手を開いただけなら(ありがとう)と言っています。

最期に伝えたい言葉が互いに勘違いだとしたら。それはとても悲しいと思うのです。

歯の治療のあと、喉の調子が悪いとき。

使える場所は有用にあるとおもいます。

 

世界共通語の地位として英語があるようにThank youと一緒に手話も覚えていいのじゃないかと。

子供の躾で「ありがとう」と一緒に手話を教えてもいいんじゃないかと。

 

より多くの人が

「ありがとう」や「ごめんなさい」の手話を

違和感なく自然に使い・読みとく事ができるようになれば、今日よりひとつ どこかで

パッと明るい『笑顔がふえる』とそんな気がしています。

 

そして、手話を主としている人が(声を使ってコミュニケーションがとれない人が)

もし 健常者に『簡単な手話だけでも覚えてください』と伝える事ができずに、

『ありがとう』や『ごめんなさい』の手話表現を使わず グー✊っと手を握り お腹の辺りにひっそりおさめてしまっているとしたら、それもとても悲しいことのような気がするのです。

 

今では、学校の校歌に手話を少しとりいれたり、手話を学ぶ時間を用意している小学校もあるそうです。

 

その他大勢から反対側に来ている今の私が感じること。少数派の意見だからこそ伝えなければ・・・と思っています。

 

『挨拶ぐらいなら手話使っていいよ👌』と

言って貰える・言える環境をつくりたい。

声の出せない人が 生きやすい環境に身をおきたいと期待もしながら・・・・

 

先ずは、自分から・・・。


最後まで読んでいただいて

ありがとうございました。